心の手

10.08.2017
Alfred Leopold Isidor Kubin (1877-1959), illustration.

Alfred Leopold Isidor Kubin (1877-1959), illustration.

デッサン(素描画)を構成する線は、深い闇から放たれた糸のようです。白い紙に降り立つのは、怪物に取り憑かれた精神がもたらす混沌。アルフレート・クービン(1877-1959)は、恐怖そのものを描きました。この崇高なアーティストによる叡智の探求は、自身のイラストレーションにも反映されています。

クービンは、挿絵画家、イラストレーター、版画家であり、小説家としての顔も持っていました。その幻想的な作品は作者の名前以上によく知られており、今なお、さまざまな企画展で目にします。クービンの名を世に知らしめたのは、いくつもの有名な小説のために手がけた挿絵でした。また、友人のワシリー・カンディンスキーやパウル・クレーをはじめとする表現主義画家たちと共に、「青騎士」と呼ばれる芸術運動にも名を連ねていました。

デッサンとは、未知のものを描く表徴の芸術。単純な形式であるデッサンは「ほとんど“無”の状態からすべてを明らかにすることができ」ますが、それには、心の揺れを感知する振動計としての役割を担う”手”が必要です。それこそが、デッサンを「魂のしるし」たらしめるのです。このしるしは、それが幻想的なものであれ現実的なものであれ、ひとつの内面世界を表し、わずかな線のみによって、混乱に満ちた実世界へと変容させます。太い線からは、表現に込められた意図や深い情熱、それらを取り巻く虚無に立ち向かう姿勢が感じられます。だからこそ、クービンの目にデッサンは象徴的なアートとして映り、実際的かつ目に見えるものであるにも関わらず、絵画よりも詩や音楽に近いのです。

クービンの芸術的な作品の多くは、彼が子供の頃に感じ、意識の深層で増殖し続けてきた、原始的な恐怖を描いています。彼が初めにしなければならなかったのは、その恐怖を心の奥底から浮かび上がらせ、想像の領域に迎え入れることでした。しかし、表徴の解釈を通して思考を探る精神分析的な作業とは違い、クービンの目的は「魂の黄昏」に現れる恐怖を見ること、そして見せることであり、その完全な状態の維持に努めていました。

それができる唯一の方法が、デッサンでした。クービンはデッサンの制作において、リズムと構成という、ふたつの異なる要因を挙げています。リズムとは、アーティストの中に流れその手を動かしている、未知の何かです。デッサンは目にリズムを与え、それはそのアーティストに深く根づいた個人的な衝動によってもたらされる、ある種の生命力ともいえるでしょう。このリズムは、習得することも成熟させることもできません。表現者に特有のものであるからこそ、線へと転化できるのです。翻って、構成はアーティストの思想に起因するものであり、自身の内面世界を、意味を持った抽象表現として、点や線、染みや空白といった限られた要素でかたちにします。リズムと構成は、観る者にとってはぼんやりとしたものですが、アーティストはふたつをはっきりと見分けることによって、独自の表現を完成させる手段を知り得るのです。

教養人であったクービンは、読書を嗜み、また数多くの芸術作品を鑑賞し、自身のアートが進むべき方向を見極めようとしていました。精確な線描は、魂から投じられた槍を思わせます。クービンはデッサンという表現の頂点として、中国の古典芸術を高く評価していました。一方、西洋ではレンブラントを師と仰ぎ、事あるごとに参照していました。中世の偉大な彫刻家たちによる作品から、幻覚を描いたヴァン・ゴッホの絵画にいたるまで熟知していたクービンでしたが、同時に彼らの教えを抑圧的に感じ、少数派や技術の劣るアーティストたちにも開かれている今の時代を讃えました。また、子供たちや門外漢、無名のアーティストや霊媒師など、芸術に新たな可能性をもたらす人々にも目を向けていました。

クービンは、迷路のような世界に自らの道を見出そうとしていました。「そしてそれを私は描くことによって成し遂げねばならない」哲学者であったにも関わらず、彼は哲学思想から離れ、心の深部を解放するための探求に挑みました。暗い影や異形の者たちを生む、この沈黙する自我は、原初の混沌と結びついていると考えたからです。