ディセーニョ、デッサン、デザイン

31.08.2017
Drawing Hands (« Mains dessinant »), lithographie de Maurits Cornelis Escher (1898-1972)

Drawing Hands (« Mains dessinant »), lithographie de Maurits Cornelis Escher (1898-1972)

アカデミア・デル・ディセーニョ パスカル・ボナフによる寄稿

ポール・ヴァレリーは、『ドガ・ダンス・デッサン』の中で、「デッサンほど心を虜にする誘惑はない」と書いています。「線を描きなさい…記憶から、あるいはあるがままに、たくさんの線を」というドミニク・アングルの教えを受け継いだエドガー・ドガを、どうしてこの詩人は受け入れられなかったのでしょうか。冒頭の言葉は、この教えからはほど遠いのです…。 

何世紀にもわたり、画家たちはデッサン(素描)の必要性を理解してきました。1563年1月13日、ジョルジョ・ヴァザーリに影響を受けたメディチ家のコジモ1世によって設立されたヨーロッパで最初の美術学校が、”Accademia delle Arti del Disegno(素描の学校)”の名を冠したのも、当然の流れと言えるでしょう。ヴァザーリは著作『画家・彫刻家・建築家列伝』の第1章で、以下のように定義しています。「私たちの3つの芸術 – 建築、彫刻、絵画 – の父である素描(ディセーニョ)は、知力に導かれながら、多様な要素をひとつの普遍的な概念へと転換する。それは、その尺度において、自然界にある万物の形態あるいは観念のようなものである。人間や動物の肉体のみでなく、植物や建物、彫刻あるいは絵画であろうと、全体と諸部分、そして諸部分が互いに持つ関係性を認識することができる」

1世紀あまりを経て、1672年1月9日、『Sentiment sur le discours du mérite de la couleur』と題した色彩論争に関する講演会が、1648年、ルイ14世の助力により創立された王立絵画彫刻アカデミーのメンバーを前に開かれました。この会における画家シャルル・ルブランの言葉は、ヴァザーリの発言と共鳴しています。「素描はあらゆるものを写実的に描く。一方、色彩は光がもたらす偶然の表現に過ぎない」彼の結論は、必然的にこのようなものでした。「したがって、色彩は完全に物質に左右され、それゆえただ精神に従うだけの素描よりも気品に欠ける」。

“Dessein(デザイン)”。現代の辞書からいくつかその同義語を引用すると、目的、願い、意図、計画、決意、狙い、意志、観点。何世紀もの間にDesseinという言葉はDessin(デッサン)に地位を譲りましたが、その実質は何も変わってはいません。

作品の原点であるがゆえに、デッサンはさらに重要であると言えます。彫刻家レイモンド・メイソンは「デッサンは最初の接点である。それはまた思想であり、後に計画となる」と確信していました。アーティスト、フェルナンド・ボテロも同じ意見でした。「デッサンは、いわゆる“ひらめき”と呼ばれる存在なのです。覚え書き、あるいは下絵とも」。デッサンは、創作になくてはならないものです。ピカソもまた、「描くことにおいては、最初の素描が最上である」と断言しています。「最初の下絵」は、過酷で厳しい鍛錬の結果、なし得るもの…。1880年11月1日、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは弟のテオに送った手紙に、次のように記しています。「デッサンは、かように苦しい闘いである」

デッサンの必要性は世紀をまたいで繰り返されています。ヴァザーリの主張は揺るぎません。「長年にわたる修練こそがまさにデッサンの本質であり、もっとも優れた巨匠を生むということを、私は強く説かねばならない」それから500年後、ピエール・スーラージュも同じ趣旨の発言をしています。「私が言っておきたいのは、それが彫刻であろうと絵画であろうと、重要となるのはデッサンの過程だけだということ。芸術家の依るべきものは唯一それだけなのだ。もしデッサンという芸術を自在に操ることができれば、ほかのあらゆることが可能になるだろう」19世紀にはアングルが「家のドアに表札を掲げるとすれば『素描の学校』だろうね。きっと多くの画家を輩出できるに違いない」と語っています。アンリ・マティスは「私たちにほんとうに必要なのはデッサンの方法を知ることだ。そうすれば何でも、植物や家具、聖母マリアまで描くことができる。大切なのは感じること。もしすでに”筋書き”があるならば、何にでも応用できる」と付け加えており、画家バルトュスもこれに続きます。「デッサンをするとき、君は世界の中心にいる。描けば描くほど、深くその存在を洞察できるのだ」 

いつの時代にも発せられたこうした発言はすべて、デッサンが意志であり、野心であり続けてきたことを証明しています。ここまでくると、極めて単純に、Dessin(素描)とはDestin(運命)である、と言わざるを得ないのではないでしょうか?