ロラン・バルトが語る日本の「包み」
22.12.2016ロラン・バルトが語る日本の「包み」 エリック・マルティによる寄稿
日本文化を綴ったロラン・バルトの名著『L’Empire des signes(記号の国)』。その中で彼は、「包み」についてページを割いています。本書の考察は日常(箸、食べもの、パチンコ)からアート(文楽、俳句、書道)にまで及びます。たしかに、そこかしこに記号が存在する社会において、このふたつはまったくの無関係というわけではないでしょう。しかし、そこに連続性があるとするならば、おそらくそれは偶然によるものではなく、何らかの規則、そして秩序が存在するはずです。日常と美の世界、双方に属する日本独自の「包み」。たいていの場合その中身を凌ぐほどに精巧なデザインを生み出す、創造力あふれる技術に、バルトは魅了されました。
たとえば、舞踊のような芸術形式では、目に見えるパフォーマンスがすべてです。しかし、「(略)包みは、永遠に中身にたどり着けないかと思われるほど幾重にも包装されているので、中に何が入っているのかを知るまでに時間がかかる。ほとんどの場合、中身は特にどうということのない、華美な包装に不相応な、取るに足らないものである。しかし、それこそが日本の『包み』が『包み』たる由縁なのだ」。
その完璧さが、バルトを日本の「包み」に引き付けました。では、バルトのいう完璧とは?まずはその在り様、いわば存在の仕方です。日本の「包み」は几帳面で端整、控えめでありながら存在感を放っています。バルトの敬愛する日本の生け花のように、空間を貫くかのようにそこに在る「包み」。花に関する多くの学術書にあるような記号化された象徴主義よりも、間(ま)や取り合わせ、場の空気が重要…。完璧性は独立性の副産物なのです。「包みは、それ自体が神聖かつ大切なものであり、しかも無償で供されている」。
この完璧性は、ただ単に秩序だった包装技術(結ぶ、貼る、折る、包む)によるものではありません。そこには形而上学的な要素が隠されています。もしもその包みが贅沢なものであれば、それが暗示しているのは「開けないで」ということなのかもしれません。贈られた人はできるだけ時間をかけて包みを開ける、そのひとときさえもが贈り物なのです。「包みの機能は空間のなかに保護することではなく、時間を遅らせることであるかのようだ」。
その瞬間を待ちわびる、密やかで優雅な時間。知りたいと思う気持ちをじらされることで得られる、西洋では見過ごされてきた、もうひとつの喜び。ふくらむ期待感が、実際に品物を手にする以上の大きな喜びを与えてくれるのです。