コンテンポラリーとは何か

19.05.2017
Le Membre Fantôme, installation view, 56th Venice Biennale, 2015 (photo by Nic Tenwiggenhorn)

Le Membre Fantôme, installation view, 56th Venice Biennale, 2015 (photo by Nic Tenwiggenhorn)

コンテンポラリーとは何か オリヴィエ・ザームによる寄稿

コンテンポラリー・アートとコンテンポラリー、この二つは同じものでは?そんな疑問が沸くのも、知っての通り、アートとは絵画や建築、ダンスや音楽など、創造的な実践の総称だからです。そして、その答えは歴史にあります。第2次世界大戦後に始まり、今日にいたるアートを、コンテンポラリー・アートと呼びます。言い換えれば、コンテンポラリー・アートとは「私たちが生きる時代のアート」である、というのが一般的な理解です。コンテンポラリー・アートとは「コンテンポラリー(同時代的)」、トートロジーのように見えて、この定義は本質をとらえています。コンテンポラリーとは年代、すなわち美術史の一時期を指すものでも、最新の芸術手法を指すものでもありません。コンテンポラリーが意味するのはアートではなく、現代と結びつきながら、その独自の時代性を映すアートそれ自体によって創られるもので、さらに言えば、それは必ずしも今この時代に属する存在というわけでもないのです。したがって、どの時代のどのアート作品も、コンテンポラリーたり得ます。

“現代”という生々しく攻撃的な光を中和し、その透明性に相反するあいまいで曇った部分を照らすことができるのは、アーティストだけです。アーティストだけが、今日的な時代を創ることができるのです。彼らこそがまさにコンテンポラリーあるいはアヴァンギャルドであり、時間という存在に触れ、自らの姿を明らかにさせる、そのあいまいさを現代というまばゆい光の下に晒し、たちまちに過ぎてしまう現在と対峙する人々であるといえます。 

こうした観点から、コンテンポラリーは、美学的評価の新たな可能性を示しています。つまり、混在し見分けのつかない芸術の中から、その時代に意味を持つアートと、その時代の要素を多少なりとも再現しているけれど、やがて混沌の渦に飲み込まれていく(正確にはコンテンポラリーではない)アートを識別できるのです。 

美術評論の低迷やアート・ビジネスの経済的影響力の高まりに直面すると、市場の法則だけで、何がその時代におけるアートだったか、代表作、美術史に残る作品だったかが決められているように思えます。強大な力を持つアート・ビジネスがその分野において価値ありと認めた作品に対して、美学的観点から意見を表明できる人はひとりもいないようです。

実際、アートはそのときどきの“現在”と結びついています。けれど、これは緊張をはらんだ関係であり、“現在”との分断、不和、決裂、解離を招きます。内含するこの欠陥は、時代とつながる手段になるのですが、しかし、すべてのアートがこのような断絶やつながりを生むわけではありません。

こんな風にも言えるでしょう – そして、これこそ私が美術評論家として立証しようとしてきたことなのですが – コンテンポラリーとは、美術批評の格言なのです。「これこそアートだ」という言葉は、ただ単に好みや理想とする美しさ、調和、あるいは逆にカオスやディストピア、病的な暗さやネオパンク、これらについて語っているに過ぎません。たとえこの美学におけるポストモダニティーがコンテンポラリーの一部であるとしても。「これこそアートだ」は、現時点での評価でしかなく、再現性をもたらす特定の芸術理論またはアートの定義と関係しているだけで、過去、近代、最新のアヴァンギャルドとは対立(および劇的に断絶)しています。

 「これこそアートだ」は、コンテンポラリー、その同時代性に否定的です。というのは、それらの芸術手法が不調和や亀裂、矛盾を“現在”にもたらし、まさしく現代と非現代を分裂させるものだからです。この断絶(ジョルジョ・アガンベンの言う暗闇)から、アートは“現在”と新たな関係を築き、情報やコミュニケーションの世界、そしてより広い意味で、今起きている事の渦中にいる私たちにとは異なる時間性を生み出します。

現代におけるこうした分断は、目に見えて明らかなものとなっています。その価値を見出し、実を結ぶべく完璧な環境を与え、的確な方法で市場と対峙する、その責任は美術評論家やギャラリーのオーナー、美術館や博物館の責任者に委ねられています。現代を支配しているイデオロギー、均一性、果てしなく加速するスピード…追い越せそうにない状況にありますが、これらに挑み続ければなりません。

コンテンポラリーは、明らかに、自らを“現在”から切り離そうとしています。それは、その異質性、特殊性、力を取り戻すための決別です。

もう少し歩を進めて、ジョルジョ・アガンベンが2005から2006年にかけて、ヴェネツィア建築大学で彼が講じた哲学論から、『コンテンポラリー論』を試みてみましょう。「その時代の背骨を折ってきたもの、すなわち断層あるいは裂け目を認識してきたもの、それがコンテンポラリーだ。そしてこの亀裂から、異なる時代と異なる世代の出会いの場が作られる」。

したがって、コンテンポラリーには二つの段階があるといえます。まず断絶、“現在”と決別することによって、始まりの時間と現在の時間が分断されます。いわばそれは、非現代的、懐古的なもの、現実の始まりとの対立あるいは侵入です。次に起きるのは、芸術作品の中に息づく、多様で、分裂した、異質な時代との出会いと摩擦です。

ジョルジョ・アガンベンの講義にはありませんが、さらに三つ目の段階も加えるべきでしょう。それは、亀裂と摩擦から始まる新たな時間性の構築であり、芸術創作に特有のものです。コンテンポラリーとは、“現在”の軌道、流動、消失、同質性、透明性から自らを切り離す存在であり、そうして自らを“現在”から解き放つことで、その起源や過去との摩擦を起こし、自身をあらわにします。つまりコンテンポラリー・アーティストとは、時間のかたまりを創造する者であると同時に、過去の時間のかたまりを復活させる者でもあり、今現在の創作において、互いを衝突、対立、あるいは調和させています。そうした意味で、コンテンポラリーは、現在という暗闇の中で再発見された起源の形而上学というだけではなく、むしろ時代の創造物なのです。

コンテンポラリーは、救いのない場所からの出口、解放、そして自由へと続く道の可能性を表しています。それは、哲学者ラカンの「不可能なもの」という概念にも通じています。「コンテンポラリー・アートとは“不可能なもの”である」。 

コンテンポラリー・アーティストにとって、芸術の探求とは、現実を排した境地、あらゆる支配的なイデオロギーに立ち向かい、不可能な地点に到達すること。そしてそのとき、コンテンポラリーは私たちを解放するのです。 

オリヴィエ・ザーム著« Une avant-garde sans avant-garde. Essai sur l’art contemporain réalisé avec Donatien Grau », (Presses du réel刊)からの抜粋