マゼランの航海

16.06.2016
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フェルディナンド・マゼランに課せられた使命は、インドネシアにあるモルッカ諸島(現マルク諸島)、別名「香料諸島」へ西回り航路で到達することでした。5艘の船に237人のクルーを乗せ、1519年、マゼラン艦隊はスペインを出港します。三年後、史上初の世界周航を成し遂げ帰港したヴィクトリア号に乗っていた船員はわずか18人。そこにマゼランの姿はありませんでした。

マゼランは、地球球体説を証明した人物として知られています。とはいえ、地球が丸いという事実は古代ギリシア時代には既に知られており、キリスト教徒たちにも受け入れられていました。また、史上初めて世界一周を果たしたとされているマゼランですが、彼自身は航海の途上で死亡しています。

マゼランは初め、航海者としてポルトガル宮廷に仕えていましたが、結局スペイン王カルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)の元で任務を遂行するに至りました。彼は南米パタゴニアでマゼラン海峡を発見し、クリストファー・コロンブスが発見したアメリカ大陸(そのときコロンブスは極東に達したと確信していたのですが)を初めて通過。続いて、後に太平洋(嵐のない“平和な海”の意)と呼ばれるようになる「南の海」を横断した最初の人物となりました。この航海により、海はそれまで考えられていたような閉ざされたいくつもの広大な水域ではなく、一つにつながっていることが証明されました。マゼラン艦隊によって、新しい時代が開かれたのです。

経度を正確に測ることが困難だった時代において、この航海は途方もなく長い布教の旅であり、地理的冒険でした。しかし、当時クローブやナツメグ、胡椒といった香辛料は粒単位で取引され、現在の金に値するほどの貴重品であり、一攫千金を夢見る男たちを駆り立てたのでした。モルッカ諸島はアラブ商人の間では古くから高価なスパイスの主要産地として知られ、彼らはここで手に入れた香辛料を遠くエジプトのアレクサンドリアまで運んでいました。そこではヴェネツィア共和国がヨーロッパへの流通を独占していたのですが、やがてポルトガルの航海者たちが喜望峰経由でインドやマレーシアに到達するに至り、香辛料貿易の主導権を握ります。表面化しつつあったスペインとポルトガルの争いを危惧したローマ教皇は、1493年、「教皇子午線」と呼ばれる勅書を発布。翌年には勢力分界線を定める条約が交わされ、世界の東半分はポルトガル、西半分はスペインに属することが定められました。この取り決めにより、スペインは西回りでモルッカ諸島を目指すよりほかなかったのです…

ポルトガル国王に拒絶されたマゼランは、後に神聖ローマ皇帝カール五世となるスペイン国王に経済的援助を求め、小艦隊を武装しました。航海の公式の目的は、両帝国の精密な分界線を作成するためとされていました。旅は試練と苦難を伴うものでした。反乱、裏切り、処刑、脱走、壊血病の発生、水や食料の不足、争い…。しかし、海峡を発見し、「火の島」(現フエゴ島)を越えて太平洋へ出たときには、この勇敢な冒険者の目にも喜びの涙があふれました。1521年、彼はフィリピンで亡くなります。セブ王をキリスト教徒に改宗させたマゼランは、近隣にあるマクタン島のラプラプ王にも同様の改宗を試みたのですが、はねつけられました。ラプラプ王の軍勢との戦闘でマゼランは毒槍に倒れ最期を遂げます。彼の亡骸は浜辺に残されたままでした。その後、船団の指揮を執ったのは、かつてマゼランと敵対していたフアン・セバスティアン・エルカーノ。彼はモルッカ諸島へと船を進め、高価な積み荷を載せ、途中ポルトガルの妨害にも屈することなく、1522年、スペインに帰港しました。

「セビリアに入港した彼らは、列をなして街を歩いた。どの男も裸足にシャツ一枚、火を灯したろうそくを手に、生きて戻れたことを神に感謝した」(航海の記録者アントニオ・ピガフェッタ)。

この記事の大部分は、中国学者シモン・レイスの著書を参照したものです。Voyage de Magellan (1519-1522). La relation de Pigafetta et autres témoignages (Editions Chandeigne, Paris, 2007)

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