レヴィナスが語る「顔」

22.09.2016
Emmanuel_Levinas (1906-1995)

Emmanuel_Levinas (1906-1995)

エマニュエル・レヴィナスは、1906年に生まれ、1995年にパリで没したフランスの哲学者です。レヴィナスは、その思想によって、もっとも偉大で尊敬すべき哲学者の一人に数えられています。それは、人間の意識、哲学、倫理学において、「他者」の「顔」と対面することこそが重要である、というものでした。

ここで、「他者」の「顔」と向き合うことの、文字通り死活的な重要性を説く言葉をいくつかご紹介しましょう。

「顔」は直裁的だ。外にさらされ、無防備である。顔の皮膚は、むき出しで、何も纏っていない。裸出性が礼儀を欠くわけではないが、赤裸であり、また、もっとも無防備でもある。顔にはある種の貧しさがあり、仕草や態度でその貧しさを隠そうとすることが、それを証明している。「顔」は露出され、傷つきやすく、まるで暴力行為を誘うかのようであるが、と同時に、「顔」によって我々は殺人を禁じられているのである。

「顔」には意味作用があるが、そこに文脈はない。私が言いたいのは、「他者」という観念において、あるがままの「顔」そのものには、社会的特性はないということだ。通常、人間には固有の特性がある。ソルボンヌ大学の教授、国務院の次長、何某の息子…パスポートや服装、その着こなし方を見れば、さまざまなことがわかる。そして、あらゆる意味や定義は、一般的観点からいえば、それぞれの文脈と関係している。何かの意味は、他の何かとの関係の上に成り立っている。一方「顔」には、「顔」そのものに意味がある。あなたはあなたなのだ。その意味でいえば、「顔」は“見られる”ものではないと言えるだろう。それは、自らの思考の中でしか捉えられないものでありながら、内容となることを拒む。飽くことなくさらなる場所へあなたを導くのだ。(中略)しかしながら「顔」によってもたらされる関係性の本質は、倫理である。「顔」は人を殺すことを不可能にする。「汝、殺すなかれ」と発しているのだ。殺人はありふれた現実であり、人は他人を殺すことができるし、倫理観は存在論的な必然ではない。殺人が禁じられたところで、現実的にそれを不可能にすることはできず、たとえ権力によって罰則が科されたところで、邪悪な悪意、卑劣な悪がなくなることはない。

「顔」は発言と結びつている。「顔」は言葉を語る。語るからこそ、あらゆる対話が可能になる。私はこれまで、「他者」との真の関係性を述べるために、視覚的な現象を否定してきた。対話、もっと正確に言えば、応答あるいは責任こそが、真の関係性なのである。

私はつねに対話において「語ること」と「語られたこと」を区別してきた。「語ること」には、必ず「語られたこと」が含まれている。それは、法や制度、社会的関係を有する社会によって課された秩序と同様の必然性を持つ。しかしながら、「顔」をつき合わせて語ることは、応答を要する。「語ること」は他者に挨拶するひとつの方法ではあるが、他者への挨拶そのものがすでに、彼あるいは彼女への応答である。他者が存在するとき、沈黙を続けることは難しい。この難しさは、究極的には「語ること」の適正な意味の中に在る。何か語る、それが天気の善し悪しなどたわいのないことであったとしても、とにかく語ることが、彼あるいは彼女への応答であり、責任なのである。(エマニュエル・レヴィナス著『倫理と無限』より)

顔には命令を下す絶対的な権能が存在し、私はこれまでずっと、それを「神の言葉」と呼んできました。「顔」は、神の言葉が宿る場所である、と。他者の中にも、神の言葉は存在するのです。(エマニュエル・レヴィナス、アナ=カトリーヌ・ベンシュラとの対談)

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