diptyqueと三人のアーティスト

21.09.2018
Yves Coueslant, Christiane Montadre et Desmond Lnox-Leet

Yves Coueslant, Christiane Montadre et Desmond Lnox-Leet

diptyqueが三人のアーティスト/ボヘミアンによる世界的冒険の賜物であることを、(繰り返しになったとしても)時にお伝えしておくことは、決して無駄なことではないでしょう。彼らが一つのメゾンのエスプリの創始者だからです。アーティストという言葉が流行り(モード)の言葉なら、diptyqueの創始者たちにとってそれは、自身の生き方(モード・ドゥ・ヴィ)に他なりませんでした。

デスモンド・ノックス=リット、イヴ・クエロン、クリスチャンヌ・ゴトロの三人は、才能と情熱を持ち寄って一つのメゾン“diptyque”を築き、同じ地平を目指すまで手を取り合い、旅を続けてきました。

レトリックが許されるなら、デスモンドは生きたメゾンの「魂」でした。画家であり、カリグラフィーやクリプトグラフィー(暗号)の愛好者であった彼は、生涯、絵筆を握り続けます。1993年に亡くなるまで、彼はdiptyqueの香水のラベルデザインを手がけ、そこに彼らの香りの生成にしばしばインスピレーションを与えたイメージを描き込みました。飾り文字、ダンシング・レターから成る“diptyque文字”も彼の考案によるものです。次いで彼は、ブティック奥の小部屋で調香に着手。ペーストを練り合わせ、キャンドルそしてその後香水に使用されることとなる、初期のフレグランスを創り上げました。長年の協働作業のうちにプロの調香師の手を借りることもありましたが、彼は常に自身の鼻を香水の瓶、ペンを墨の瓶へ向け、家でも絵筆を手放すことはありませんでした。

装飾美術学校を卒業したクリスチャンヌ・モンタードル=ゴトロは、デザイナー業の傍ら、ハンドメイドで作品を制作していました。帽子、服飾、(作品の一つがグラン・パレの装飾美術展に展示された)タペストリー等、そのジャンルは多岐に渡ります。diptyqueでは、カラフルな素材を巧みにミックスさせた、数々のジュエリーや装飾品を制作。また、デスモンドとともに、当時の抽象・近代芸術に由来するさまざまな幾何学形のパターンから、diptyqueのテキスタイルモチーフ「Choriambe(コリアンブ)」、「Paladin(パラダン)」、 「Fabliau(ファブリオ)」、「Légende(レジェンド)」、「Basile(バジル)」、「Sarayi(サライ)」、「Prétorien(プレトリアン)」を考案しました。これらのプリント生地は今日、パリ装飾芸術美術館に保存されています。また、建築、美術史、伝統芸術に造詣が深かった彼女は、数多くの注文を受けています。パリの古い建造物のファサードを極彩色に復元する仕事を任されたり、建築家のミッシェル・パンソーの依頼で、1992年のセヴィリア万国博におけるモロッコ館のパビリオンの装飾を手がけたり…。その後、カサブランカの「ハッサン2世モスク」のため、ゼリージュ(タイルモザイク)のモチーフを多数デザインしました。

ルーヴル美術学校で学んだイヴ・クエロンは、仲間たちとdiptyqueを立ち上げるまでのおよそ12年間、演劇界に身を置いていました。室内装飾家のポール・フレシェのアシスタント時代には、何とミッシェル・モルガン、エドウィージュ・フィエール、ジャン・コクトーのアパルトマンの内装を手がけたことも。劇場では、彼は舞台美術家であり、装飾家であり、特にツアーマネージャーとしては、エルヴィール・ポペスコや、コメディ・フランセーズとも仕事をしています。ある時は演出家、プロンプター、またある時は代役として大御所ミッシェル・シモンと共演。また、趣味として絵も嗜んだ彼は、この大俳優にプライベートで肖像画を描かせてもらったこともありました。こうした経緯で、盟友デスモンドの死後、1993年から2006年に亡くなるまでの間、彼がdiptyqueのキャンドルと香水のラベルを考案・デザインすることとなったのです。

diptyqueは当初、友情で結ばれた三人のアーティストにとっての、「自由な遊び場」でした。彼らはそこに、手工芸品と自分たちの作品を一緒くたに並べていました。お祭り騒ぎのようなその空間は、流行りのものでも正しいものでもない、彼らの独自で確かな目を思わせるセンスに彩られていました。やがて彼らの鼻にも、このセンスが宿っていくのです…。