香りの探求者

24.11.2015
Roman Kaiser 3

2008年のある晴れた日、ローマン・カイザーは徒歩で、サン・ジェルマン大通り34番地にあるその店を訪れました。仕事に出かける際は気球に乗って行くことも多い彼にとって、それは異例とも言える出来事でした。

ローマン・カイザーは香りの探求者として知られています。珍しい香り、とくに辺境の地に生息する絶滅危惧種の花の香りを求めて探検するのです。果てしなく続くアマゾンの森、険しい崖、北イタリア・リグレの海沿いにあるオリーブ畑、パリにあるdiptyqueのブティック、あるいは歩くことさえままならない氷河。ひとつだけ、思いがけない場所が混じっているようですが…

2011年に発売された「34 boulevard saint germain(サン・ジェルマン34)」シリーズがどのようにして生まれたのか、ご存知でしょうか。それは、ブティックに漂う空気から香水を作るという発想から始まりました。店内には、何十年もの月日を経て蓄積された数えきれないほどの香りが絶妙に混じり合っています。パフューム、オードトワレ、キャンドル、そして幾多の人生…。そこは、目には見えないdiptyqueの歴史が漂う空間。つかみどころがなく深遠なその匂いにインスパイアされたフレグランスを開発しようという試みでした。ローマン・カイザーが作成した香りのカプセルからフレグランスを調香したのは、名だたる香水をいくつも手がけてきたクリエイター、オリヴィエ・ペシュー。彼はカイザーを「科学者であり調香師でありアーティスト、不可能を可能にする巨匠」と称しています。

カイザーの仕事は天職と言えるでしょう。子供の頃から自然界、中でもその色や匂い、風味に強い興味を持っていた彼は、後に化学者となり、スイスの香料メーカー、ジボダン社の研究所に在籍中、繊細で予測不能な香りを捕集する技術「ヘッドスペース法」を完成させます。古代エジプトでは、集められた花の香りはラードのような精製油脂の中に保存されていました。この技法は、不安定な香りを保存するのに前世紀まで使用されていましたが、一輪の花を保存するのに何時間も要し、費用もかかることから、ついには途絶えてしまいます。そこでカイザーは、ガラスの球で花を覆い、チューブを使って中の空気を取り出すという技術の開発に取り組みました。抽出された香りはその後、脂ではなくポリマーに保存されます。これなら、まったく同じ方法で、風船を使ってもできそうですね。

この技法は、大変珍しいフランス領ギニアのツリガネカズラの保存にも使われました。工程はとてもシンプル。サンプルから気体分析器で香りの分子を分別し、それぞれの質量比率をスペクトラル測定器で計ります。分子を特定することで、人工的に香りを再現することが可能になるのです。

とはいえ、diptyqueのブティックの香りを捕らえるのはかなり複雑な仕事でした。カイザーは香りをいくつかの種類に分け、数ヶ月に渡って店内のあちこちを探索しながら作業を進めました。サン・ジェルマン大通り34番地の匂いのエッセンスを忠実に再現し、ソープやオードトワレ、キャンドルといった製品に取り入れられるようになるまで、それからさらに2年の歳月が費やされます。ブランド設立50周年に合わせて発売された同シリーズは、パフュームデザイン技術の快挙として大きな反響を呼びました。

香りの探求者カイザーは、世界中の香りのほとんどを、とりわけ判別の難しい絶滅危惧種の香りまで特定することができます。たとえばアジア産の香木、沈香や、ブラジルに生育する洋蘭、カトレア・ルテオラ、アルプス山脈に咲く忘れな草などなど。アマゾンでもアフリカでもマダガスカルでも、スポンサーから得た寄付を分配することで地元が潤うよう、彼は地元住民と共に仕事を進めています。

ローマン・カイザーは、1988年にロッシュ・アワードを受賞、1995年には自然科学の分野においてチューリッヒ工科大学名誉学位を授与されました。数多くの科学関連の記事や論文を発表する傍ら、蘭をはじめとする絶滅危惧種、その他地球上のあらゆる香りについて、さらには植物学や香りの歴史・文化に関する本も多数出版しています。