華氏451度

28.02.2017
Couverture annotée par le cinéaste François Truffaut du livre Fahrenheit 451 de Ray Bradbury, éditions Denoël – (La Cinémathèque française © Succession François Truffaut)

Couverture annotée par le cinéaste François Truffaut du livre Fahrenheit 451 de Ray Bradbury, éditions Denoël – (La Cinémathèque française © Succession François Truffaut)

『華氏451度』は、1953年に出版された、レイ・ブラッドベリのSF小説です。1966年には、著者の同意を得て、フランソワ・トリュフォーが映画化しました。題名の『華氏451度』とは、紙が燃え始める温度を意味しています。舞台は書物の所持や読書が禁じられた架空の世界。発見された場合、本は“ファイアマン(焚書官)”によって焼却されてしまいます。

悪夢のような社会を描いたこの物語は、ディストピア(反ユートピア)小説だとよく言われます。そこに表現されているのは、消費社会に飼いならされる“よろこび”。住人たちは歴史を持たないで生きることを享受しています。文化、知識、記憶、考察、想像、教養…これらをもたらす創作物はすべて禁じられ、この社会において忌むべき存在です。本来は消防士を意味する”ファイアマン”に与えられた新たな任務 – それはあらゆる本を燃やし尽くすこと。こうした組織的な焚書活動が行われる中では、市民による密告も少なくありません。この全体主義社会は、表面的には平和で秩序立っているように見えますが、市民たちは日々の行動や快楽のため、あるいは睡眠のために薬を飲み、思考力を失っています。記憶をも消し去り、心を空っぽにしてまった人々は、与えられた情報の範囲内でしか考えることも感じることもできません。市民の多くは、もはや人を愛する術もわからなくなっています。この専制的な社会は、アレクシ・ド・トクヴィル(19世紀フランスの政治思想家)の恐ろしくも的確な言葉を借りれば、「考えるという行為への関心と生きる上での苦難を取り除く」ことに成功していたようにも思えます。

この画一化された社会では、だれもが権力者たちの定めた規範 − 生命力や気力を削ぐ、規格化された消費主義 – に従っています。不平等や虚栄、またそれらによって引き起こされる混乱を防ぐ。こうした表向きの理由から、教養や文化を排除し、ぼんやりとした集団的な幸福感を人々に与える必要があるとされています。ここに登場する政治制度は、無知と無関心、つまり知識と意識の欠如に依存しているのです。

書物は、一日中つけっぱなしのテレビスクリーンに取って代わられました。娯楽番組を放映するだけでなく、市民との双方向のやり取りも可能で、主な視聴層である主婦の中には、テレビの前で奇妙な振る舞いをする者もいます。視聴者は自宅に居ながらにして生放送に参加できるため、馬鹿げた双方向番組を通じて人気を得る者もいました。能動的か受動的かは別にして、ある種の共同体が司会者と視聴者との間に形成され、それは「家族」と呼ばれています。トリュフォーの映画に登場する薄型テレビは、今日のプラズマテレビにそっくりです。風刺的かつ批判的な意味でも、これらの描写は未来を予見しており、現代のソーシャルネットワークの普及にも通じるものがあります。人々は熱狂的に人気を求め、24時間消えることのないスクリーンが、現実の美しさを越えた存在となってしまったのです。

では、どうすれば自身の生活を脅かすことなく、こうした無知と闘えるのでしょうか。その鍵は記憶にあります。闘うことは、学ぶこと。争いの元凶として本が燃やされ、あらゆる抵抗勢力は根絶されてしまいます。残された手段は、本に書かれている言葉をすべて暗記し、口承することでした。いつか社会が、それを再び書物として蘇らせてくれるまで…。紙が燃やされてしまうならば、頭の中に。人類の遺産を後世に残す必要性に突き動かされ、『華氏451度』は、主人公のモンターグが街のはずれにある”本の人々”の国を見つける場面で終わります。そこでは一人ひとりが本の題名と著者の名前で呼ばれ、貴重な書物を暗唱することができる生き証人として、人類が人間性を失わずにいられるよう行動しています。