良識という封蝋

23.02.2017
Portrait de René Descartes (1596-1650) par Jan Baptist Weenix (162-1659/61), Utrecht Centraal Museum.

Portrait de René Descartes (1596-1650) par Jan Baptist Weenix (162-1659/61), Utrecht Centraal Museum.

デカルトによる「蜜蝋の分析」は、画期的な思考法であるだけでなく、哲学史上においても非常に有名です。その過程で、少しでも疑う余地があるものは、すべて”溶け去って”しまいます。しかし、その後に残るものこそ、ひとつの真理なのです。

1641年に出版された『省察』の中で、ルネ・デカルト(1596-1650)は、先入観や信仰、感覚に疑問を呈し、まったく疑いえないことのみに基づいた哲学的方法によって、これらを再検証しました。第二省察では、蜜蝋を例に取り、感覚による認識がいかに不確実であるかを論じています。

「たとえば、この蜜蝋を例に考えてみよう。たったいま蜂の巣から取り出されたばかりで、蜜の甘さが未だ残っており、集められた花の香りもかすかに感じられる。その色、形、大きさは一見してわかる。固く、冷たく、手に取ることができ、指で叩けば音がする(中略)しかし、こうして私が話しながら、それを炎に近づけると、蜜の味は抜け、香りは消え、色は変わり、形は崩れ、膨張し、液体になり、ほとんど触れられないほどに熱くなり、叩いても音を発しなくなる…」。それでもなお、同じ蜜蝋なのです。同じことは、あらゆるものに起こります。そこに至るまでの時間はさまざまですが、肉、土、植物、石…どれも腐り、崩れ、分解され、再構築されます。感覚で捉えたものに、確かなことは何ひとつありません。なぜなら感じ取った性質は、実際には不安定で、変化しやすく、一時的なものだからです。感覚による認識は想像に由来しており、それが変化を受けること、不確かであることを示しているに過ぎないのです。

しかしながら、こうした想像や常識に基づいた認識を越えるものが、精神です。感覚が捉えた不確かなものを取りのぞけば、何が残るでしょうか。それは、蜜蝋とは「延長を持ち、柔軟で、変化しやすい物体である」という理解。ただ精神のみによって認識され、知性のみによって判明する事実です。

可塑性を持つ蜜蝋の例は、物体が無数の変化を受けることを表す上で、示唆に富んでいます。“延長”という観点から、あらゆる事柄において、知覚されたものへの信頼は失われます。感覚とは、ただの幻想に過ぎないのです。この単純な例を用いた推論の背景には、当然、哲学者アリストテレスの存在があるでしょう。彼もまた、蜜蝋の伸張性を例にあげ、相反する性質について語りました。真の現実とは、私たちが認識できるものの中にあり、それは蜜蝋に押し込まれた物体が残す刻印のようなものだとしています。そこにはまた、当時の学術的な思想や神の概念が強く感じられます。

溶けた蜜蝋は、今のところ、あることを証明しています。私たちの目に映っているものは、知識や良識ある見方ができなくても、感覚など問題にすることもなく、そこに存続しているのです。

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