緩やかな時間

15.04.2017
Milan Kundera, écrivain tchécoslovaque né en 1929 et naturalisé français.

Milan Kundera, écrivain tchécoslovaque né en 1929 et naturalisé français.

「緩やかさ」を測ることはできるのでしょうか?それを目に見える動きの速度ととらえる人もいれば、経過する時間の長さととらえる人もいるでしょう。通常それはスピード(速さ)の欠如と定義されています。しかし、もしも「緩やかさ」が必要なものであったとしたら、それは記憶や言葉とどう関係しているのでしょうか?

作家のミラン・クンデラは、1929年、チェコスロバキアで生まれました。1981年にフランスの市民権を取得した彼が、初めてフランス語で執筆した小説のタイトルは『La Lenteur(緩やかさ)』。この短編の中では、時を超えて、ふたつの物語が交錯します。ひとつは、現代の西欧社会を映し、自らの評判と色恋のことで頭がいっぱいの知識人や学者たちを揶揄した喜劇。もうひとつは、長らく作者不明とされてきたヴィヴァン・ドゥノン(1747-1825)の短編小説『Point de lendemain(その日かぎり)』に登場するリベルタン(放蕩者)の物語です。

馬車とろうそくの時代が、車や電気の時代よりもゆっくりと進んでいたことは、驚くにあたらないでしょう。力学に比べて、緩やかさは相対的なものです。そのテンポは、ドゥノンの控えめで簡潔、直接的な作風を見ればすぐに理解できます。彼の描く人々は、政治的野心や恋愛を成就させる上で快活さと会話のセンスが強力な武器となった、18世紀末そのものです。もちろん繊細さも持ち合わせています。一方、200年の時を経て、ドゥノンの物語の舞台となった城に集うクンデラの小説の登場人物たちは、愚かで粗雑、洗練のかけらもありません。速くなった時の流れが、どうしてこれほどまでに重苦しくなってしまったのか、そして、200年前の生き生きとした人々が示す緩やかさとは何なのでしょうか?

物事は変化していきます。時間術、それは18世紀の人々と現代人ではまったく違うものでした。18世紀に生きるリベルタンたちにとって、それは動詞に形づくられています。彼らは、今、為していることを語り、ただ目の前で繰り広げられている芝居に、当意即妙に応えるだけ。ほんとうに意味するところを隠したり避けたりしながら、悦楽をできるだけ長続きさせるために、目配せや楽しい会話のやりとりを演じます。彼らは忍耐強く、上手に時間を操る方法を知っています。記憶に残ることが彼らの喜びであり、これらの思い出は折々に、人々の口の端に上るのです。翻って、クンデラの描く現代人たちは、熱に浮かされたかのようです。彼らにとっての時間術は、イメージに支配されています。舞台は公の場。際限のないナルシシズムから、だれもが本音をぶちまけるのですが、口々にしゃべるものだから騒々しくて何も耳に入ってきません。他人の目を気にする彼らには、協調性も、落ち着きもありません。もちろんそこには現代的なテクノロジーが関わっています。時間は失われてしまったのです。そのスピードはやがて彼らを忘却の彼方へと連れ去ります。自らの姿を映す恥ずかしい記憶は消去されてしまいます。

ミラン・クンデラは結論を読者に委ねています。ただ、彼がカメラを嫌い、だれもが我先にと急ぐような世相を憂いているのは確かです。個人的な会話のやりとりは、時間を共有するということ。その時間は喜びであり、私たちの記憶に残ります。こうした緩やかに過ぎる時間こそが生きた知恵であり、生きる術を教えてくれるのです。