秘密のクラブ

30.10.2015
Pyramide-Desmond-2

文字が踊る舞踏会って? ちょっと想像してみてください。

diptyqueのレタリングは読みやすさとは程遠く、ときにはほとんど解読不能…ですが、同時に、何千も並ぶ文字の中でもひときわ目を惹きます。どう読めばいいのかはっきりしないまま舌をもつれさせ、わかったようなふりをする人もいるかもしれませんね。この一見支離滅裂な文字の並ぶdiptyqueのラベルをデザインしたのは、デスモンド・ノックス=リット。文字デザインは、デスモンドが第二次世界大戦中に過ごしたブレッチリー・パークの邸宅と関係があるのかもしれません。ブレッチリー・パークの役割は1974年まで英国政府の機密事項で、今も詳しく語られることはありませんが、そこには秘密裏に選ばれ、Official Secret Acts(公職守秘法)に署名した人々によるチームが存在しました。

1939年から1945年にかけて、頭脳派から奇人変人まで、様々な技能を持った優秀な人材がブレッチリー・パークに集められ、ドイツ軍の交信に使われていた暗号の解読に携わっていました。数学者、言語学者、クロスワードパズルの専門家、チェスの達人などなど、その道に秀でた人物ばかりだったと言われています。ブレッチリー・パークの邸宅は、英国政府の暗号学校(GC&S)本部となり、スタッフの間では冗談めかして「ゴルフとチーズとチェスの協会」と呼ばれていました。戦時中、作業はシフトを組んで24時間体制で行われ、隊員は暗号解読者、連絡要員、諜報部員など、それぞれの職務別に分かれて仮兵舎に居住していました。デスモンド・ノックス=リットは、ジブラルタルにある英国海軍基地に短期間所属した後、翻訳者として終戦までブレッチリー・パークで働いていたと考えられています。

どうやらここで彼は、アラン・チューリングと出会ったようです。この天才的イギリス人数学者は様々な技術を用いてドイツ軍の暗号を解読しましたが、中でも有名なのはドイツ海軍がUボートなどで使用していた「エニグマ」の暗号通信を解読したことでしょう。1944年6月6日、連合軍によるノルマンディー上陸作戦を可能にしたのは、チューリングのチームの功績によるものだと言われています。また彼は近代コンピュータの父とも呼ばれ、コンピュータプログラミングと形態形成の礎を築きました。

同性愛がまだ犯罪とされていた1952年、チューリングは風紀を乱したとして起訴されます。服役か化学的去勢かの選択を迫られたチューリングは、研究を続けるために化学的去勢を選ぶのですが、ホルモン療法による錯乱に苦しみ、2年後、青酸中毒によって自殺しました。死体のそばにはかじりかけのリンゴがあったそうです。果たして彼はリンゴの中に毒を仕込んでいたのか? アップル・コンピュータのロゴはコンピュータ科学の父への敬意を表したものだという説もあります。

チューリングのプリンストン大学時代の友人で、後にブレッチリー・パークで再会したショーン・ワイリーは、友人の死後ずいぶん経ってからこう語っています。「ブレッチリー時代に上層部がチューリングの性的嗜好を知らなくて良かった。でなければ、彼の存在は封印され、我々は戦争に負けていただろう」。2013年12月24日、エリザベス女王は死後恩赦を与えました。ゴードン・ブラウン首相も、アラン・チューリングに対する治療は言語道断であり、彼こそ真の戦争の英雄であると述べ、公式に謝罪しました。「国民を代表してここに謝罪できることを大変栄誉に思います。あなたはもっと称賛されるべき人物でした」。

秘密はときに命綱であり、また致命傷でもあり。diptyqueのラベルについてもまた然り。文字の踊るラベルの謎はたぶん、謎のままにしておくのが一番なのでしょう。