江戸における芸術

17.04.2017
Carte du Yoshiwara, 1846.

Carte du Yoshiwara, 1846.

徳川将軍家が江戸に都を定め、統治した江戸時代。世襲制による武家政権は平和と安定をもたらすと同時に、厳格な政治・社会体制と道徳観で、民の行動を統制していました。しかし、皮肉なことに、こうした厳しい規範にも関わらず、ある種の“嗜み”がこの時代に数多く生まれました。

1603年、徳川家康が幕府を開き、江戸時代が始まります。この時代に発令された御触書を読むと「贅沢を戒め、朝から晩まで常に気を抜かず、仕事に励みなさい」とあり、生活に楽しみが多かったとは思えません。一方では、1665年、浅井了意が『浮世物語』の序文に「月、雪、花、紅葉にうちむかひ、歌をうたひ、酒のみ、浮きに浮いてなぐさみ、手前のすり切(無一文)も苦にならず、沈みいらぬこころだての、水に流るる瓢箪のごとくなる、これを浮世と名づくるなり」と書いています。

天皇と貴族が統治していた平安時代(794-1185)は古典芸術、中でも詩歌が盛んでした。その後は戦乱の時代が続きましたが、江戸時代になると再び平和が訪れます。これは、策謀渦巻く京都から遠く離れた江戸に都を置いたことが大きいでしょう。まもなく、諸大名を一年おきに江戸に住まわせる参勤交代制度が制定され、自国領に戻る際には、正室や世継ぎを人質として江戸に残すよう命じられました。日本は完全な鎖国状態に突入。地図は禁止され、反乱を防ぐため都へと続く道は荒れたままに、関所を設け通行税を徴収することによって人の移動を規制していました。この政治体制を支えていたのは、何と言っても社会階級制度(士農工商)です。権力者に仕える貴族たちが贅沢な生活を送る反面、農民や職人たちは清廉かつ勤勉であることを求められ、厳しい年貢が課されましたが、尊厳も与えられていたようです。商人たちは、ほぼ最下位に位置づけられつつも必要な存在として捉えられ、一方で絵師や芸人、役者といった職種の人々は、下層階級の中でもさらに軽んじられていました。最後に武士たちですが、今や宮仕えの身となった彼らにとって、合戦での知識は無用のものとなっていました。しきたりが細かく体系化され、作法が重んじられる時代。会話にも注意が必要で、検閲も盛んに行われました。

とはいえ、貴族や特権階級が豪勢な暮しをすることで、江戸の町は大いに賑わいました。盛大に消費することが、いわば彼らの仕事だったのです。町が栄えるにつれ歌舞伎などの娯楽が発達し、その様子を描く浮世絵が誕生しました。さらに、江戸の人口の約8%と推定され、町の3分の2を占める武家地で暮らしていた武士たちが、伝統芸術へと回帰します。芸術は武士道をはじめとする侍の主義信条に背くことなく、またほとんど使われることのなくなった武力をなだめるのにも役立ちました。

やがて、町の繁栄と共に独身の男たちは気晴らしを求めるようになり、吉原と呼ばれる幕府公認の遊郭が生まれました。そこは、芸術家や花魁、遊女屋を営む者たちが、禁断の行為とは無縁だった上流階級の人々と交わる場所…。庶民にとって、そんな未知の世界を絵や物語により疑似体験できるのが浮世絵でした。その画法は、幕府や諸大名に仕えた狩野派の絵師たちとはまったく異なるものです。有名な浮世絵師には、喜多川歌麿(1753-1806)、葛飾北斎(1760-1849)、歌川広重(1797-1858)などがいます。こうした絵師たちとその版元は検閲を受けることもあり、とりわけ春画(性風俗を描いた絵画)がその対象となっていました。

抑圧的な政治体制で知られる時代、日本の首都・江戸(1868年に東京へ改称)は、官能的な世界を礼賛する、禁じられたアートの町でした。同時に、ここを中心に、三大芸道(茶道、香道、華道)が、貴族文化を享受する上流階級の間で広まっていったのです。

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