最悪の歌姫

27.10.2016
Florence Foster Jenkins (©Getty image)

Florence Foster Jenkins (©Getty image)

フローレンス・フォスター・ジェンキンス(1868-1944)は、エルジェ(「タンタンの冒険」シリーズの作者)の描くミラノのオペラ歌手、ビアンカ・カスタフィオーレのモデルだったのでしょうか?漫画に登場する歌姫は読者を笑わせますが、フローレンスもまた、聴衆の笑いを誘いました。残念ながら本人の意図するところではなかったのですが…。感動的な伝記映画によって、フローレンスの名は不朽のものとなりました。実は、彼女はdiptyqueの過去とも関係しているのです。

フローレンス・フォスター・ジェンキンスは異色の歌姫でした。残念なことに、音楽を愛するあまり、彼女は自分のひどい歌声に気づかなかったのです。声もテンポも音程も歌い方も、すべてがめちゃくちゃ…。彼女が子供の頃に夢見ていた歌手としてのキャリアをスタートしたのは、44歳のときのこと。彼女を愛し、気遣う取り巻きに囲まれ、本人はその恐ろしい事実を知らずにいました。夫は、彼女はすばらしい歌手であると思い込ませました。ピアニストは最悪の状況でもベストを尽くし、やがて、この絶望的に音痴なプリマドンナのことを好ましく思うようになっていました。時を経てトリオは有名になり、76歳になったフローレンスは、人気ソプラノ歌手としてカーネギーホールの舞台に立ちます。聴衆は心から喝采を送るのですが、批評家たちのレビューは容赦がなく、「最悪の歌姫」もついに真実を知ることになります。彼女にとっては致命的な出来事でした。リサイタルの1ヶ月後、彼女は亡くなります。 

フローレンス・フォスター・ジェンキンスの人生を描いたスティーブン・フリアーズ監督による伝記的ロマンティックコメディは、実にすばらしい映画です。事実をありのままに表現していますが、それぞれの思いを立証する記録はなく、想像する他ありません。メリル・ストリープ演じるフローレンスは、好きにならずにはいられない人物。応援の気持ちが湧き、涙を抑えきれなくなります。そして、フローレンスの夫、セント・クレア・ベイフィールドを演じるのはヒュー・グラント。まさにぴったりの配役ですが、メリル・ストリープとの共演に怯み、役作りに不安を抱いていたというグラントは、リサーチに多くの時間を費やしました。この男女、仕事の見通しの立たない俳優と将来性のない歌声を持つ歌姫との関係は、風貌や美しさと財力や社会的地位との交換取引、虚栄心によって結びついた同盟だっただけではないと思い至り、このベイフィールドという男がほんとうに好きになったといいます。ヒュー・グラントは、素直で心優しき番犬、マネージャー役を演じました。サイモン・ヘルバーグは、仲間たちと共に、雇い主の発する悲壮な騒音を必死でカバーするピアニスト、コズメ・マクムーン役を務めています。フローレンス・フォスター・ジェンキンスは事実、聴衆に愛されていました。もちろん音楽的才能が評価されたからではなく、周囲によって自分はすばらしい歌手であると信じきっていたことがその理由でしょう。カーネギーホールでのリサイタルの際も、どうしても笑わずにはいられないような制御不能な金切り声などがおこったときには、拍手や口笛で笑い声をかき消すよう指示が出されていました。フリアーズの映画は、彼女が自ら歌う姿をどのようにイメージしていたかを示すシーンで終わります。フローレンスは、自分が当代きっての美声の持ち主だと心から信じていたのです。

彼女にまつわる話にはまだ続きがあります。この風変わりな歌姫は、一般に向けて販売されたものではなかったとはいえ、レコードも何枚か制作しました。取り巻きたちの努力にも関わらず、結局最後に彼女は笑い者となり、その名声は勘違いでしかなかったということになってしまいましたが、そんな彼女の死後何年も経ってから、diptyque創業者の一人であるデスモンド・ノックス=リットは、フローレンス・フォスター・ジェンキンスのレコードを聴き、その歌声は別にして、皮肉でも冗談でもなく気に入ってしまいます。それは奇跡のような出会いでした。デスモンドはおそらく一山いくらの中古盤を手に入れたか、あるいは再プレスしたのでしょうか。確かなことは、そのレコードが、ポントワーズ通りの角にあった(diptyqueはポントワーズ通りとサンジェルマン大通りが交差する角にありました)、友人の経営するインテリアショップEpi d’orとの連携のもと、販売されていたということです。

それは1966年のことでした。diptyqueとEpi d’orで売られていたこのレコードを、パリのメディアは「今年一番おかしなレコード」と紹介しました。もちろん限定発売!信じられないでしょう?