星座の歴史

25.01.2018
Constellation du Taureau (photographie © Akira Fujii)

Constellation du Taureau (photographie © Akira Fujii)

星座は、私たちが地上から望む天空に現れる落書きです。星と星とをつなぎ、目に見えない線で描かれるのは、動物や道具、神話の人物たち…。

これら星座は、さまざまな事物に見立て、夜空に敷き詰められています。複数の星をひとつの集合体として区分した星座(Constellation)は、ラテン語で「共に」を意味する”Con”そして「星」を意味する”Stella”を語源としています。それぞれの集合体は光り輝く線画を浮かび上がらせ、その中でもひときわ明るい星々を目印に星座を見つけ、その名を識別することができます。つまり、図形に合わせて境界線を設け、星を区画ごとに分けたものが星座なのです。実際には、目に映る位置関係は幻想であり、星と星との間が遠く離れていたり、誕生した年代が違っていたりすることもあります。ただ、はるか遠くからその不思議な光を観測する者にとって、同じ方向に並んでいるように見えるというだけに過ぎません。

宇宙という巨大な黒板に星を散りばめ投影された図形は、人類の歴史、もっと言えばこの世界と同じくらい古くから存在するものです。はくちょう座やおうし座、しし座の形は、アルメニアで発見された紀元前4千年世紀の石板に刻まれている星の配置と一致します。同じ頃、メソポタミア文明では、さらにはっきりと星座を識別しており、やがてそれらは古代ギリシアへと受け継がれていきます。

伝承によれば、紀元前3世紀、死後の魂が星や星座に転化されるという思想を初めて提唱したのは、古代ギリシアの詩人アラトスだとされています。星座に神話の人物の名前をつけたのも彼が最初でした。それから5世紀後、エジプトで活躍した天文学者プトレマイオスが、紀元前2世紀に千個以上の星を観測したヒッパルコスの遺産を引き継ぎ、48の星座を設定しました。さらに細分化されたひとつを除き、これらは88ある公式に定められた星座の一部となっています。ペルシアやアラビアの偉大な天文学者たちはこの知識を発展させ、それは西洋にも伝わっていきます。中でもペルシア人の天文学者アル・スーフィーは、10世紀末にいくつもの優れた星図を作成しています。しかし、これらはすべて北半球から見える星座に限られていました。天文学者たちが、赤道より北から空を観察していたためです。

後の時代、南半球で確認された星座も加えられます。これは、16世紀末に星図の作成に尽力した航海士ペーテル・ディルクスゾーン・ケイセルとフレデリック・デ・ハウトマンの観測によるところが大きいでしょう。主な星座は、17世紀、天文学者バイエル、ヘベリウス、バルチウスによって定められ、続くラカイユによって天体図が完成されました。ラカイユは、ちょうこくぐ座やテーブルさん座、じょうぎ座、ポンプ座など、星座に実際的な名前をつけたことで知られています。天空には観測すべき星がまだまだ無数にあり、この時代、星座と神話の関係にも区切りがつき、空には星座が乱立しました。

宇宙が果てしなく広大であるにも関わらず、必然的に星座は重複してしまうようになります。そこで1922年、国際天文学連合は会合を開き、88の星座を公式に定めました。さらに、ベルギーの天文学者ウジェーヌ・ジョゼフ・デルポルトの尽力により、赤経と赤緯に沿って境界線が決定されました。区画に分けられ正式な名称を与えられたことにより、すべての天体はいずれかの星座に属するところとなり、その中でもとりわけ明るい星が星座の形を描く基点とされます。アンドロメダ座α星のように、かつてはペガサス座とアンドロメダ座、ふたつの星座にまたがっていたものもあり、「馬のへそ」とも呼ばれていました。また、星の中には、地上からは観測できるけれど、すでに存在しないものもあります。星から放たれた光は、星が消滅した、あるいは自ら星図から姿を消したずっと後に、地球に届いているのかもしれません。

現代の星座は、太陽の通り道である黄道上に存在する黄道十二星座が発祥です。両者の目指すところは遠く離れているわけではありません。星座は、計り知れないものを計り、有限と無限を調和させ、人間の物語を天空に映し出し、すべてがひとつになる姿を見せてくれます。そして何よりも、夢や伝説を通じて、私たちは宇宙と共に暮らすことができるのです。だからこそ星座は長年にわたり、たくさんの船乗りたちを救い、無事に港へ帰してきたともいえます。

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