ムラーノ島

12.10.2017
Vase à «murrine» transparentes, 1925, de Ercole Barovier (1889-1974), (photography©Robert Lorenzson), Collection particulière.

Vase à «murrine» transparentes, 1925, de Ercole Barovier (1889-1974), (photography©Robert Lorenzson), Collection particulière.

ヴェネツィア近郊のムラーノ島。この小さな島は、かつて高級クリスタルやガラスの製造技術を独占していました。この門外不出の技術によって、ムラーノ島は繁栄し、世界的にその名を知られるようになります。千年もの間、ガラス職人たちは一族や国家を挙げて秘密を守り、顧客を増やしていきました。

ムラーノ島は、ヴェネツィアから2kmの距離に位置し、連絡橋でつながる5つの島で構成されています。1201年、ガラス工芸に欠かせない溶鉱炉の市内での使用は、火事を避けるため議会が制定した法律によって禁止され、セレニッシマ(ヴェネツィア共和国)のガラス職人たちは、島に留まることを余儀なくされました。

その卓越したガラス工芸技術によって、ムラーノ島のガラス職人たちは名工として高い評価を得ていました。13世紀にギルドを結成し、溶鉱炉のスケジュールを調整しながら、ガラスの生産量を厳しく制限したことで、価値を高めることにつながりました。ガラス職人たちは、ヴェネツィア共和国を離れることができない代わりに、名声を手に入れたのです。他に類をみない技術を唯一の拠り所として、ガラスはヴェネツィアを代表する芸術となり、商業的にも成功を収めました。さらに、13世紀には十字軍、15世紀にはコンスタンティノープルを征服したオスマン帝国によって地中海を追われたガラス職人たちがムラーノ島の職人組合に加盟したことで、ビザンティンのガラス工芸技術が伝わりました。

ムラーノ島のガラスが優れていた理由は、その探究心と技術にあります。ミルフィオリ(模様の入ったガラス棒)、ラッティモ(レースガラス)、金糸を施したガラスオブジェ…。これらは一子相伝の技であり、ひと財産築こうと島を離れ国外に出たガラス職人は、不在中に死刑を宣告され、ときには捕えられ、殺されてしまうことも少なくありませんでした。外国と接触することもまた、法律で禁じられていたのです。 

ガラス職人の一族は、やがてバラリン、ヴェニーニ、パウリー、バロヴィエ&トソ(1295年に創業し、いまなお健在!)といった名門ガラスメーカーとなります。

ガラスやクリスタル、琺瑯などを用いた花器、食器、陶器、ランプやシャンデリアなどは非常に独特で、ヨーロッパの王族を筆頭に人気を集めました。17世紀には、雇い主に追い出されフランスへと逃れた職人が報復のため、ジャン=バティスト・コルベール(ルイ14世の王政を支えた財務大臣)の依頼に応え、ヴェネツィアンガラスの秘密を暴露したという逸話があります。これによって、仏サンゴバン社が創業されました。

悪名高き風刺作家であったピエトロ・アレティーノは、その奔放さゆえ、ムラーノへ渡りました。ルネサンス期、とりわけリベルタンの時代(そう呼んだのはエリート層だけでしたが)に、ムラーノ島は再びヴェネツィア貴族たちの遊興の場となりました。“カジノ”と称される城や屋敷には堕落した放蕩者が集い、修道院は恋人たちのたまり場と化します。毎夜、金銭を賭けて行われるファラオバンクと呼ばれるカードゲームに興じ、プレイヤーの中には、夜が明ける前に全財産を失う者もいました。ジャコモ・カサノヴァは、ロマンスに満ちたこの島での刺激的な愛の営みを、著書『わが生涯の物語』の中で回想しています。 

現代において、ムラーノ島はガラス工芸の市場を独占しているわけではありません。技術のいくつかは流出してしまっています。それでも、千年の長きに渡る技術は今に受け継がれ、偉大な先人たちの系譜に連なる名門ガラスメーカーの心臓部を担っています。今日、こうした名門ガラスメーカーは、先進性と独創性をもって作品を制作するアーティストたちとコラボレーションを行っています。観光客向けに展示されているきらきらとしたガラス器の背景では、この芸術が絶えることなく育まれ、比類なき匠の技が継承されているのです。