ピエール・ド・フェノル

21.03.2017
21.6.85 18h (France, Tarn, 1985), photographie de Pierre de Fenoÿl

21.6.85 18h (France, Tarn, 1985), photographie de Pierre de Fenoÿl

空想の地理 ヴィルジニー・シャルダンによる寄稿

フランスの写真家、ピエール・ド・フェノルにとって写真は、絵画や文学が抽出する芸術であるのに対し、受容する芸術でした。受容の境地に達しようと、彼は精力的に歩きました。これこそが唯一、真の<写真の流派>である、と彼は確信していたのです。

1984年、DATAR(国土整備地方振興庁)は1851年に構想された『ミッション・エリオグラフィック』に倣い、フランス全土の風景目録の作成を目的とした撮影プロジェクトを起ち上げ、ピエール・ド・フェノルはじめ、ガブリエル・バジリコ、ソフィー・リステルユベール、クリスティアン・ミロヴァノフらを招集しました。最初の撮影地としてフェノルの頭に浮かんだのは、フランス南西部にあるタルヌ県。最終的に彼の写真のほとんどがこの地で撮られました。ピエール・ド・フェノルは、何日もかけてこの地方を残らず歩き回り、樹々や葉の茂み、風、大地の起伏、そしてその空に魅了されました。「運の良い日には、ぴったり望む通りの位置に雲があった。そんなときのうれしさと言ったら!雲と遊べるなんて夢のようだろう!」と彼は書き残しています。彼の撮影した風景の中には、人間の姿や近代産業の存在を示すものがありません。畑や庭、記念碑、墓地、宗教施設などは写っており、そこに人が暮らしていたことは確かなのですが…。

ピエール・ド・フェノルは、その土地の精神と歴史の痕跡だけでなく、自然に囲まれた穏やかな田舎町にすら影を落とす苦悩、エデンの園あるいは悦楽の園が隠し持つ秘密を探していました。妻の協力を得ながら行ったプリント作業では、以前パリやエジプトの風景写真に使用したのと同じ、暗い色調にこだわりました。これには、今目の前にある情景が世界の始まりなのかそれとも終わりなのか、見る者につかの間の迷いを生じさせる狙いがありました。

ピエール・ド・フェノルの最大の関心は時間でした。「美の追求というよりは通過儀礼ともいうべきこの旅において、もっとも大切なことは、見るために時を過ごすのではなく、時の経過に目を向けることだ…」なぜならカメラは「心の目であり、刻々と進む時間を永遠の一瞬へと変様させる」のです。「私は測量技師でも空想家でもない。アンリ・カルティエ=ブレッソン風に言うならば、今、この瞬間を探し求める時間の計測者であり、そうありたいと願う」。 

写真家として仕事を始めた頃には、こうしたスピリチュアルな一面はあまり見られませんでしたが、年を重ねるにつれ変化していきました。1983年、彼はこのように書いています。「写真の世界を歩むうち、そこに宗教的さらにはほとんど神秘的ともいえる何かを感じるようになり、確実に方向性が変わった」。世界に対する実存主義的な探求心は、風景の中に自分自身の影を写した作品群や、まるで霊や記憶が住み着いているかのように見える、アンジュのシャトリエ邸の写真によく表れています。1981年、ピエール・ド・フェノルが初めて自らの作品を公開したポンピドゥー・センターの企画展『Autoportraits photographiques(セルフポートレート)』において、それはさらに顕著です。その後も彼は多くのセルフポートレートを撮影しましたが、自画像はつねに風景の中にある影でした。

その際立った独創性から、彼の作品は1980年代フランスの写真運動を取り上げた展覧会でよく見かけられます。この時代を代表する写真家には、アルノー・クラースやマグディ・セナジ、ベルナール・プロス、ダニエル・ブディネ、田原桂一、白岡順、クリスティン・ミロヴァノフ、ホルガー・トリュルシュ、デニス・ロッチらが名を連ね、作品の多くはモノクロ写真で、内省的あるいは自伝的な意味合いを感じさせます。

ピエール・ド・フェノルは、心臓発作で突然倒れ、1987年9月4日に亡くなります。その数こそわずかですが、密度の濃い作品を残しました。

 

ヴィルジニー・シャルダンは、ジュ・ド・ポーム国立美術館の別館、トゥール城で開催された 『ピエール・ド・フェノル』展のキュレーターを務めました。