ドゥルーズのシネマ

11.07.2017
Image extraite de Rear Window (Fenêtre sur cour), film réalisé par  Alfred Hitchcock, sorti en 1954.

Image extraite de Rear Window (Fenêtre sur cour), film réalisé par Alfred Hitchcock, sorti en 1954.

ジャン=クレ・マルタンによる寄稿

多くの人が、哲学はあまりに抽象的だと考えています。凝り固まっている、現実を分類し、その範疇の中に閉じ込めている、と。フランス人哲学者アンリ・ベルクソンの望みは、こうした限定的な枠組みを粉みじんに吹き飛ばすことでした。彼は思考に運動という概念を取り入れようとしていました。彼の興味、それは「持続」でした。どうすれば運動を存続させることができるのか?どのように推進し、また軌道修正ができるのか。いかにして運動を持続させるかという彼の夢は、映画の誕生と関係しています。ベルクソンは、この新たな発明によって、もはや写真だけでは十分とはいえなくなっていた当時、時代の先駆者となりました。瞬間を切り取った画像とは違い、映像は自ら動きます。写真がフレームから飛び出し、いくつものショットの連続がひとつのシークエンスになり、映画となる…それはすばらしいものでした。しかし、思考それ自体も、この脱フレーム化する過程の証人として、前景と背景の間にある深い闇の中へ飛び込み、永遠の現実逃避を体験するべきではないでしょうか?

ベルクソンの著作に影響を受けた哲学者ジル・ドゥルーズは、彼の「思考」と「運動」に関する研究が、ルネサンス時代における遠近法の発見と同じくらい劇的で重要なテーマであると考えていました。ドゥルーズは、ベルクソンがただ軽く触れたに過ぎない映画に、真剣に取り組んだ最初の哲学者でした。映画とは、運動の再現ではなく“faire(作る・行う)”もの、また物語性とは無関係の新たな体験です。「モンタージュ」という技法がありますが、そこに物語は存在しません。それは映像と映像を組み合わせ、意図や感情、思考へと導く編集技術で、物語性の入る余地がないからです。ドゥルーズが、映画の革新に、ベルクソンの著作「物質と記憶」を連想したのも当然のことでした。しかし、映画が物語ではないとするならば、別の哲学者と組む必要が生じました。記号によって、言葉で語ることなく意図を伝える方法を発見した、アメリカ人哲学者のチャールズ・パースです。記号とは、放たれる空気、音、あるいは知覚的ときに感情的、感情的ときに瞑想的、瞑想的ときに観念的、といった性質を指します。映画は文学ではなく、ゆえに文節のようにはつながりません。シネマとは、文法やレトリックから一歩先に進んだものなのです。

このことは、ヒッチコックのようなフィルムメーカーの作品を見れば明らかです。彼の映画は動きやアクションにあふれていますが、首尾一貫した筋書きがあり、しっかりと構成されています。しかし、彼の映画に物語はありません。動きの制御、それがヒッチコックの映画の特徴です。映画『鳥』では、ある町がおびただしい数の鳥の群れに襲われ、住民たちは身動きが取れなくなります。『サイコ』では、母親の記憶に取り憑かれた息子。呪われたホテルの中で、彼の人生は止まっています。シャワーの音とうつろな鳥たち。『めまい』では、高所恐怖症によるめまいのせいで、主人公は階下に降りることができません。乗り越えることのできない時間。それは文字通りドラマへと転じます。わずかな時間ですが、すべてが満たされ、あらゆるものは凍結されてしまいます。サスペンスはここで、先へ進むはずのアクションの連鎖を止め、運動イメージは気がつくとそれを構成する要素で飽和しています。それらはもはや動画の一部ではなく、伸張する時間と思考の最高点に達しているのです。何も起こらない“死んだ時間”を埋めるように流れる音楽…。偶然に起きるアクションが、ドゥルーズの言う『時間イメージ』へと発展するのです。

もう少しヒッチコック映画を例に挙げると、彼の”サスペンス”はまさに、動きを停止すること(suspension)によって生まれるものです。制御されながらも起きる偶然が、映画『裏窓』のテーマであることは明らかです。この映画の主人公であるジェフは、車いす生活のため、自由に動けません。部屋に閉じ込められているその状況は、サミュエル・ベケットの戯曲にも似ています。しかし、演劇の世界とは違い、その出口は映画における時間枠の中で見つかるようになっているのです。さまざまな窓を映すことによって二分割された画面が、フラッシュバックと相まって、時間は迷宮となります。筋書きは方向性を変え、生活の断片をつなげはじめ…カメラのレンズはその奥行きを探りながら窓から窓へと移り、疑問や疑惑、犯罪が起こった可能性を示します。

ドゥルーズは、二つに分割されたイメージを「結晶イメージ」と呼びました。結晶イメージとは、イメージを重ねる、あるいは並列に配置することで、その関係性はもはやアクションや動詞によるものではなく、むしろ不定詞や多数の記号によって成立します。騒音や犬の鳴き声、シャンパンボトルのコルクを抜く音、うきうきとした笑い声…こうした音は実際、不安の高まりや飛躍する想像力を裏付けるように、映像の如くフィルムに収められています。そしていよいよクライマックスシーン、暗闇の中、殺人者が階段を上がってきます。男の息づかいや足音が次第に大きくなり、床板がきしむ音から、彼のイメージが予期されます。全身に鳥肌が立つような悪い予感と共に、スリルと不安に満ちた空気に包まれるのです。

ジャン=クレ・マルタン 

哲学の博士号を持ち、パリの国際哲学コレージュで1998 年から2004年にかけてプログラム・ディレクターを務めた。著書多数。