サンフランシスコ

19.04.2016
diptyque maiden lane (2)

サンフランシスコが放つきらきらとしたオーラは、世界中の人々を気づかないうちに魅了しています。可能性に満ちたこの街は、別の世界を夢見ることのできる場所。風習や文学、公民権運動、大学、最先端のバーチャルビジネス、そしてエコロジー…現実世界のしがらみから解き放たれ、これまでもさまざまな分野で新たな試みがなされてきました。

街は人々の夢から始まりました。元々はカトリック教会の伝道所を守るために築かれた要塞があるだけだった湾岸の小さな町に、19世紀ゴールドラッシュの時代、“黄金の川”を夢見る採掘者たちが一攫千金を求めて押し寄せ、1836年以降、その人口はみるみるうちにふくらみました。アメリカ領となった後、1847年、街は聖フランシスコにちなみ、サンフランシスコへと改名されます。それまでは、この地に品質の高いミントが群生していたことから、イエルバ・ブエナ(スペイン語で「よい草」の意)と呼ばれていました。その次の世紀にサンフランシスコはヒッピーたちの聖地となるのですが、なんだか皮肉な巡り合わせです。

その歴史は、サンフランシスコが自由主義者や放縦な人生を愛する者たちを引き寄せる、自由と寛容の街であることを物語っています。今日の世界を騒がせているさまざまな問題を提起し、イノベーションを起こしてきたのは、伝統や権威を疑う反アカデミズム文化が根付く、ここサンフランシスコにほかなりません。 アフロアメリカン協会は、サンフランシスコ湾東岸にある名門大学、バークレー校で発足し、ブラックパンサー(1960〜70年代に台頭した急進的な黒人解放組織)による『子供たちのための無料朝食プログラム』もこの地から始まりました。また、アート界や文学界を席巻したビートニク(ビート・ジェネレーション)の出版拠点となった『シティ・ライツ・ブックストア』もここにあります。この街とそれを取り巻く環境が、ヒッピー、サイケデリックムーブメント、フラワーチルドレン、ビートニクなど、多方面にわたってカウンターカルチャーを生み、育んだのです。ゲイカルチャーの中心地となりゲイ・レズビアンの人権運動を牽引したのもサンフランシスコでした。1989年には難民保護に関する条例めぐって連邦政府と対立しましたが、今なお不法難民の拠り所となっています。

手段を模索しながら進められてきたこうした試みは、政治、ビジネス、科学研究にまで及びます。サンフランシスコは30年以上にわたり、環境問題、持続可能な開発、気候変動の緩和といった問題に関して、世界でもっとも先駆的な都市であり続けてきました。シリコンバレーは現在もハイテク技術やバイオテクノロジー、バイオ医薬品、ITビジネスの中心地であり、アップル、テスラモーターズ、ヒューレット・パッカード、グーグル、インテル、フェイスブック、ウィキメディアといった企業の本社があるほか、バーチャルリアリティの発信地としての顔も持っています。

忘れてはならないのは、アメリカ合衆国皇帝、さらにはメキシコの保護者であると自ら宣言したジョシュア・エイブラハム・ノートンです。この男は、一文無しの変人だったにもかかわらず、警察を含む市民全体に敬愛されていました。彼は自らの名の元に発行した独自の通貨を使って、好きなレストランで食事をし、ボックス席でオペラを鑑賞しましたが、それを拒む者はだれもいませんでした。また彼はいくつもの勅令を発布しました。その一つは次のようなものでした。「いかなる根拠および言語的意味も持たない、忌まわしい『フリスコ(サンフランシスコの略称)』なる言葉を用いる者は、この正当かつ公式な警告以降、重篤な犯罪を犯した者として帝国の国庫に対する25ドルの罰金を徴収さるべきこと」。彼の死に際しては盛大な葬儀が執り行われ、その費用は街の公共団体や有力者、彼に忠誠を誓う者たちによってまかなわれました。作家のマーク・トゥエインやロバート・ルイス・スティーヴンソンも彼の信奉者でした。3万人もの人々が葬儀に参列し、その列は3キロメートルにも及んだといいます。葬儀の翌日、1880年1月11日は皆既日食で、サンフランシスコの街を闇が覆いました。他所であれば監獄に放り込まれてもおかしくないようなこの奇抜な人物が、異次元ではなく現実の世界で愛情を持って受け入れられ存在しうるのは、この街以外になかったでしょう。 

サンフランシスコを代表する有名なロックバンド、『ジェファーソン・エアプレイン』を結成した故ポール・カントナー(2016年1月28日没)の言葉は、まさにこの街を言い表しています。「サンフランシスコ、それは現実世界に囲まれた49マイル四方の土地」。

 

diptyqueサンフランシスコ店は、73 Geary Street(SF 94108)に移転します。