いかなる偶然?

24.09.2018
Bas-reliefs mettant en scène le Farvahar, symbole accompagnant les préceptes essentiels du zoroastrisme, dans l'antique ville de Persépolis en Iran (©CC BY-SAOLYMPUS DIGITAL CAMERA)

Bas-reliefs mettant en scène le Farvahar, symbole accompagnant les préceptes essentiels du zoroastrisme, dans l'antique ville de Persépolis en Iran (©CC BY-SAOLYMPUS DIGITAL CAMERA)

偶然とは、単なる偶然なのでしょうか。mementoにはお答えするすべがありません。しかし、もしこの大胆な質問に不確実ながら命題を立てることが出来るなら、mementoは縁あってこの記事を読んで下さる方々の同意を集めるべく、あらゆる努力を惜しまないでしょう。

存在するものすべてが単一あるいは複数の原因の結果であり、出来事のすべてが(物理の法則や自覚的な意図の有無等)無数の要因により機械的に決定づけられたものであるならば、偶然は、「精神が予測不可能であったもの」の名前に過ぎません。精神がそのすべての原因とその相互作用とを同時に把握することは不可能であるからです。数学者であり思想家であったアントワーヌ・オーギュスタン・クールノー(1801-1877)の言葉を借りれば、偶然は単なる「独立した二つの原因の系列の出会い」なのです(複数でも可)。すべてのものは、無論この定義の通りですが、それぞれの結果の引き金となった理由の総体は極めて複合的で錯綜しているため、それは予測不能な、自らの内にある非決定、つまり偶然であると考えられます。

現実は常に超越的な筋書きに沿ったものであるとし、占い師の欺瞞を皮肉ったG.W.ライプニッツは、著書『形而上学叙説』にこう記しています。「なぜなら、たとえば(テーブルに投げた土の粒の形で占う)土占いというこっけいなことをする者のように、紙の上にでたらめな点をいくつも描いてみるとする。それでもそこには、すべての点を描き手が置いた順番どおりに結べるような、その概念が一定の規則にしたがって恒常的で斉一的であるような、一本の幾何学的な線がみいだされうる、と私は考える」[1]。さらにこの章を、「もっとも、宇宙がこぞって依拠しているあの偉大なる神秘が、こんなやりかたで説明できるとは私も考えていない」[2] と結んでいます。同様の考察を、詩人ユーゴーは、次の言葉に集約させています。「自然に於て我々が出来心と呼び、自然に於て機会と呼ぶ不協和な謎は、ちらりと我々に示された法則の断片である」(ヴィクトール・ユーゴー『笑ふ人』)[3]。

すべては全時代に渡り、書き記されているのかも知れません。その場合、何者かの考えた、謎めいた筋書きに従って、世界の、自明の混沌とした生命の歴史の糸が、救いの神により繰り出されることでしょう。また、現在の出来事は何も書かれていないものの、すべてが原因と結果の無限の確実な連続により生じているとも考えられます。一方が決定性、他方が非決定性のこの二つのケースでは、偶然は決してそのどちらか一方ではなく、単に、このような状況が、ほかに起こり得たすべての現実になぜ勝るかを理解する能力に欠けていることを示しているに過ぎません。

偶然が起こるためには、常に、以前の原因の必然的結果ではなく、ある種自発的に作り上げられた、無からの原因の介入が可能でなければなりません。偶然は、「手品師の帽子から出て」こなければならないのです。そして、人間のレベルでは、この「帽子」は「自由」に置き換えて考えることができるでしょう。

なぜなら幸いにも、‘クリナメン’が救いに来てくれるからです。この概念は詩人ルクレティウス(紀元前1世紀頃)のもので、彼は『物の本質について』(De Natura Rerum)において、詩にのせて偉大なエピクロス(紀元前342年~270年)の学説を披露しています。ルクレティウスの‘クリナメン’はエピクロスのそれと異なっていた可能性が大いにありますが、これに関しては、学者の方々にお任せしておきましょう。唯物論と呼ばれるこの哲学は、始原は、垂直方向そしてそれと平行に、決して触れ合うことなく落下する原子の雨のようなものであり、‘クリナメン’は、一つの原子が軌道から逸れてほかの原子と対になり、物質、存在、生命をもたらす、この軽微な傾斜運動であるとしています。太陽、惑星、生と死、愛の起源は、不確かな衝突であったという訳です。つまり、クリナメンなくして、「自然が何かを生み出すことはなかった」のです。さて、多種多様な世界をもたらした、この軽微な傾斜の原因については何一つ説明されていません。一体何が、原子を動かしたのでしょうか。それ自体の意志でしょうか。いずれにせよ、現実は開け放たれていて儚く、散逸的で脆く、また、いかなる既存の概念にも応えることはありません。クレマン・ロッセは、現実のこの不安定性とこの無秩序が、「生きるという仕事とは、瞬きをせず、互いに語り合わず、この世を住むに足るものにしている観念世界を前提とすることもなく、あるがままの現実を積極的に喜び愛しむことである」という、悲劇的な唯物論の基礎を成しているとしています。

というのも、この最初の偶然が、決定・選択・自由の基礎となっているからです。偶然により引き起こされる、意図しない現実の承認は、時として闘いを生じさせます。受容とは、盲目的な妥協ではないのです。「あいかわらず俺たちは、偶然という巨人と一進一退の戦いをやっている。人類全体をこれまで支配してきたものは、あいかわらず無意味ということだ。」[4] ニーチェの言葉を借り、ツァラトゥストラは諭します(もっとも、これは逆でもあるでしょう)。「俺は無神論者のツァラトゥストラだ。どんな偶然でも俺の鍋で煮てやろう。その偶然がしっかり煮えたら、はじめてそいつを俺の料理として歓迎してやろう。」[5] これは、高次の意識における現実の承認の仕事のためですが、続いて、「じっさい、主人のような顔をして俺のところにやってきた偶然もある。だが、もっと主人のような顔をしてそいつに口をきいたのが、俺の意志だ。-すると偶然はもう、ひざまずいて頼んできた」[6](フリードリッヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』)。これは決定する力、死をはじめとする不可避なものへの同意の選択も含めた、決定を生み出す力のためです。「理性。-どのようにして理性は世界にあらわれたか?当然のことながら、非理性的な仕方で、偶然によって、である。人はこの偶然を謎同様に解かなければならないであろう」[7](フリードリッヒ・ニーチェ『曙光』)。このような思考は、すべての信仰を揺るがします。なぜならニーチェはそれを、二つの「国」、目的と意志の「国」、そして、すべてが偶然に過ぎない、理性や目的のない「宇宙的な愚鈍」の「国」に区別してしまう、幻想であると糾弾しているからです。あるいは、『偶然のさいころ筒を振る必然性のあの鉄の手は、かぎりない時間にわたる勝負をする。そのとき、あらゆる度合の合目的性と合理性に完全に似て見えるさいころの振りがあらわれるに違いない』(同書)[8]。それでは、自由と必然性は、弛みない世界の冒険を映す合わせ鏡なのでしょうか。そこにまた、偶然というものの謎があるのです。

偶然があるとすれば、それは見事な働きを示し、ないとすれば、必然的な原因は見せかけの偶然を隠れ蓑にしてしまいます。シュールレアリズムの機関誌『ミノトール』第3号において、アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールは、友人300人に対し、以下のアンケートを取りました。「あなたの人生において最も重要な出会いはどのようなものでしたか。その出会いは、どの程度まで、あなたに偶然あるいは必然のものであるという印象を与えましたか / 与えていますか。」画家マックス・ジャコブは、次のように答えています。「それは1909年9月28日午後5時、ラヴィニャン通り7番地の自宅での、神との出会いです」。

[1] G.W.ライプニッツ、橋本由美子監訳、秋保亘、大矢宗太朗訳『形而上学叙説』平凡社、2013年、p.20.

[2] 同書、p.21.

[3] ヴィクトール・ユーゴー、宮原晃一郎訳『笑ふ人』冬夏社、1922年、p.104.

[4] フリードリッヒ・ニーチェ、丘沢静也訳『ツァラトゥストラ(上)』光文社、2010年、p.157.

[5] 同書、(下)、p.53.

[6] 同書.

[7] フリードリッヒ・ニーチェ、茅野良男訳『ニーチェ全集 第7巻 曙光』理想社、1962年、p.127.

[8] 同書、p.134.

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