あの頃のモベール

30.10.2015
boutique diptyque vitrine

1961年にdiptyqueがブティックをオープンしたモベール・ミュチュアリテ界隈からサン・ジェルマン地区まではわずか数キロ。しかし、環境や雰囲気、住人たちの階級や生活水準、暮らしぶり…何もかもがまるで違っていました。まったく正反対の二つの小さな世界が隣り合っていたのです。 

サン・ジェルマン大通りは、あてもなく流れる川のように、パリ第7区、6区、5区を横切っています。サン・ジェルマン地区はブルジョワ的で、ソルボンヌ大学をはじめとする有名エリート校に近いこともあり、若い知識人たちの集まるエリアでした。昔から反骨精神にあふれ、もめ事も多かったのですが、やがて外国人含め様々な人々が集まるようになり、夜ごとのパーティ、ジャズやシャンソンのコンサート…とそれぞれの文化が入り混じった国際色あふれる芸術や文化の中心地となります。知識人と不良、セレブリティとその取り巻き、アーティストとジャーナリスト、耽美主義者と流行を追う人。そんな若者たちが新たな時代、知識階級を形成しようとしていました。

一方モベール地区は、工場や工房の集まる昔ながらの静かな街。住人には職人も多く、古着屋や古道具屋、素朴な伝統料理を出す定食屋、地元の人でにぎわうバーや個人商店、下宿屋などが並んでいました。パンや果物、野菜を売るモベールの朝市は何百年も続いており、1930年代に建てられたミュチュアリテ会館ではフランス左派の党会議がしばしば開かれ、両地区の違いを際立たせていました。フランス統治領であったコーチシナ(現在のベトナム南部)やトンキン(現在のベトナム北部及びハノイ)出身者が集まるアジア人街もあり、味に定評のあるベトナム料理店も人気でした。モベールは、様々な人々がそれぞれのコミュニュティを形成しながら仲良く暮らす、活気に満ちた住み良い街だったのです。

インドシナ解放戦争の終わった1954年から1960年代にかけて、二つの街を人や物が行き交うようになり、両地区の違いは薄れていきます。それでも、モベールに暮らす人々、街の雰囲気はそのまま残っていました。

経済的に余裕のなかったdiptyque創業者の三人にブティック開店資金を援助したのは、イヴ・クエロンの父でした。真面目に働く職人たちが集まるモベールの街を気に入って、三人が選んだのは、以前バーとランジェリーショップのあった場所。大通りに面していましたし、多くの学生たちが訪れるポントワーズ・スイミングプールが向かいにあるのも魅力でした。ここからdiptyqueの物語は始まるのです。